「八代と小西行長」レポ


二週間も経つのにまだレポ書けてない…。
そろそろ記憶もあやふやになってきそうなので、忘れないうちにザザッとしたレポまとめ。



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会場内の正面にはデカデカと「八代と小西行長」の文字とスクリーンが。これだけでもうドキドキする。あの紙ほしい。


最初に講師の鳥津亮二氏のご紹介。
師匠は神戸(近畿)出身→岡山大学・大学院卒→香川の博物館に赴任→現在熊本勤務。という、人生で関わった土地が行長の歩んだ道と同じですよーというお話。
いつか岐阜で、天下分け目の大事件に関わるんでしょうか(笑)


そんなこんなで、講演開始。汚い字でメモった内容とカリカリ梅大くらいしかない脳みそでの記憶頼りなので、かなり怪しい&抜けてることが多いと思いますけどご了承ください。あと講演では言ってないけど、補足で勝手に説明付け足してる部分もあります。



まずスクリーンに映し出されたのは岐阜県春日村の観音寺所蔵の小西行長画像。
束帯姿で、おそらく描かれたのは江戸末期くらいではないかとのこと。
この画像がある春日村には、春日中山で村人の密告(でも実際には中山の村人の密告ではなく、隣の村か、隣の隣の村だかの村人が密告)により捕まった行長が、「この村を三度焦土にしてやる!」と言い放ったという伝説が残っています。
なので春日村では行長の祟りを鎮めるために建てられた小西神社があり、春日村での行長は神として祀られています。観音寺に伝わる画像も天神様のような神様チックな感じ。
こんなふうに、その土地土地に伝わってるイメージは絵や像なんかに反映されやすいのです。
岐阜春日村での行長は「神」「祟り神」というイメージで伝わっていますが、行長の特徴であるキリシタン要素がありません。
しかし熊本では一転して、キリシタンであるということが大きく強調されています。
ここでスクリーン上には宇土城址にある行長の銅像が映し出されます。
この像はコニシタンなら一度は直接、または写真で見たことがあると思いますが、首からクロスを下げてどことなく知的でスマートな印象を受ける銅像です。つまりこれが熊本の人の行長に対するイメージなんですね。

ちなみにここで小西行長トリビアをひとつ。
宇土城址の小西行長像は…大阪府堺市で創られた。(へーへーへー)
1980年の行長没後380年記念事業で創られたのですが、製作したのは大阪府堺市にある『白石彫刻研究所』様です。聞いた話では行長と縁の深い堺の彫刻屋さんを選んだのは偶然ではなく、やはり狙ってそこに依頼されたそうです。しかもこの彫刻屋さん、岡山に工場があるんですね。完璧です。行長像を創るためにあるような彫刻屋さんです。


話が逸れましたが、コニシタンの皆様は行長役の俳優さんと言えば誰を思い出しますか?
ドラマや映画で行長役を代表する方といえば、大河ドラマ『黄金の日日』で行長を演じられた小野寺昭氏。『太陽にほえろ』の殿下ですね。やはりどこか知的な感じの方で、これが日本人が抱く行長イメージにつながっています。
けれど韓国で文禄・慶長の役の朝鮮海将・李瞬臣のドラマが放送されたそうなのですが、そのドラマでの行長役のかたはチョ・スンホ氏という方。日本側のイメージよりや、ややごつい感じです。
熊本で「行長」=「キリシタン」というイメージが強いのは、江戸期に『拾集物語』で「行長は邪宗門(キリシタン)の信徒で神仏は信じず、神社・寺などを焼き払いキリシタンの繁栄しか考えてない!」みたいなことを書かれたイメージが根付いているため。
しかも清正時代には、行長のことを『摂津守殿』『行長様』のように殿や様を付けて話すことも書き記すことも禁止されるという徹底した行長イメージの改悪が行われたのです。そこまでせんでも…。

しかし近年では行長についての見直しが進められています。
その切っ掛けとなったのが、麦島城跡の発掘調査、八代のキリシタン殉教者の再評価の鍵として当時の統治者である行長も再検討されるようになったのです。
しかし行長は日本史全体から見てもまだまだ謎が多い人。敗将であり、江戸期は禁教令が敷かれたキリシタンの代表的人物であることから史料がないと今までは思われていました。
でも調べてみると史料がないなんてことはない。現在、行長の手紙だけでも90通は残っているそうです。
そんなわけで、行長研究はまだまだ始まったばかりなのでした。


次は小西行長という人物についての略歴の話になりました。
行長は永禄元年(1558年)、京都で生まれます。イエズス会の報告書に行長のことを「都(京都)生まれのアゴスチイノ殿」と書かれているのですね。
行長の一族は両親も兄弟も洗礼を受けたキリシタン。行長も幼少のころに都の聖堂でキリシタンの洗礼を受けています。
たまに高山右近の影響で青年になってから洗礼を受けたとも言われますが、確かに右近の勧めによって洗礼を受けた「アゴスチイノ」のことはイエズス会の報告書で見られます。でもこれは行長ではなく、たまたま洗礼名がかぶっただけの別人です。
ちなみに聖堂(教会)は今のようなてっぺんに十字架があって、ステンドグラスがあって…なんてものではなく、南蛮寺と呼ばれるお寺です。八代にも行長時代には14ヶ所建てられたそう。
行長は当初、備前備中美作の三国を治める宇喜多直家に仕えていました。
日本側の史料としては行長が宇喜多家に仕えていたことを表す史料はありませんが、イエズス会の報告書の中で「アゴスチイノ弥九郎殿は備前の王・八郎殿(宇喜多秀家)の旧臣だったので、宇喜多の重臣は皆アゴスチイノの友達だったんだよ」と書かれていることから、かろうじて宇喜多家臣であったことが伺われます。
行長は宇喜多が織田に下るときの副使の役目を果たしたとか軍記本には書かれていますが、その後、1581年頃には秀吉に仕えるようになります。はっきりと宇喜多家臣から秀吉家臣になったのがいつなのかは不明。
秀吉の下では主に海上輸送の任に携わっています。秀吉に「姫路から届くはずの材木が届かないじゃないか!ちゃんと働け!!」と怒られたり、若い日の弥九郎さん頑張ってます。
その甲斐あって、室津・小豆島の管理を任されるようになります。室津・小豆島といえば瀬戸内海から大坂に入る要所。そこを任され、水運・水軍を統括する立場になった行長のことを宣教師ルイス・フロイスは『海の司令官 ドン・アゴスチイノ』と称しています。海の司令官ドン・アゴスチイノ。

このころの行長はキリシタンの布教にもやる気満々。1581年には室津で布教、1585年には室津に大きな聖堂を建て、同年、小豆島にセスペデス司祭を招いて領民に洗礼を受けさせています。
しかしこんなふうにキリシタン布教に励んでた行長ですが、天正十五年(1587年)から風向きが変わってきました。
秀吉の九州征伐が始まったその年の6月に、いきなり秀吉からキリシタン禁止令が出されたのです。
その内容は「宣教師は帰れ!!でも南蛮貿易はOK!!」というものですが、この秀吉の言葉は矛盾してるんですね。何故なら南蛮貿易と宣教師は切っても切り離せない。宣教師を通してでないと、南蛮貿易というのは成り立たないからです。
しかしこの禁教令が出された後も、一族揃ってのキリシタンである行長にはなんのお咎めもありませんでした。
それどころか博多の整備を命じられるなど、ますます重用されていきます。秀吉としては行長は宣教師にも顔が効くし、貿易権や交易ルート確保のための大事な人材だから手放すことができなかったんですね。
あと行長は禁教令に対して右近のように領地より信仰を取ったりせず、あっさりと棄教(ただし表向きだけ)したからでもあります。
この禁教令後、それまで積極的にしていた布教活動も行長はしなくなりました。行長が再び布教活動を表立って行うようになるのは慶長三年に秀吉が死んだあとのことです。

そんなわけで1588年には肥後の緑川より南の24万石を領地として与えられます。八代は重臣の小西末郷(木戸作右衛門。洗礼名:ジャコベ)に任せました。
肥後南半分を治めるようになった行長は、天正16年(1588年)にさっそく家臣の鳥飼権右衛門に600石を与えるなど知行の割り振りをしています。


ここで話は行長の花押のことになりました。
行長は弥九郎時代、日向守時代、摂津守時代と花押を微妙に変えています。
わかりやすいのが日向守から摂津守へ変わったとき。行長の花押のくるんとなった丸の中に横線が一本あって、縦線が二本あるのですが、この縦線が横線を突き抜けているかいないかという違い。これはたまたまではなく意図的に変えているそうです。
また行長の官位といえば真っ先に思いつくのが「摂津守」ですが、実はこれは「せっつのかみ」とは呼んでいなかったことが発覚。なんと呼んでいたかと言うと「つのかみ」なのです。
行長が自筆で書いたと思われる交通手形に「こにしつのかみ」の自分で書いてるんですね。
よくイエズス会の報告書で「アゴスチイノツノカミ」とか「ツノカミドノ」とか出てくるのは、宣教師が「せっつ」を発音できなかったり聞き取れなかったりしたからだと思ってましたけど、なんと行長自らが「ツノカミ」を名乗ってたんです。
あとこの交通手形には、もうひとつ面白いものがあります。
署名の下に印鑑が押されているのですが、師匠も最初この印鑑がなんと書かれているのかわからなかったそう。
だけど「もしかして」と思って180°回転させると、印鑑の文字が「長行」と読めたのです。もちろんこれは「行長」のことですね。
こういう印鑑なんかを上下逆にしたりするのは、戦国武将がよく使う手法だったそうです。
自分の名前を回転させて印鑑とした行長のお茶目な一面なのか、それとも単に上下逆に押し間違えただけなのか(…ちょっと有り得そうと思ってしまった)どっちなんでしょうか?


ここで話は八代の歴史になります。
元々八代のお城は古麓城というお城で、250年くらいの間は八代の中心だったのです。
一言で250年と言っても長いです。江戸幕府並です。それが突然小西行長なんて全然知られてない若造がやってきて「八代城は麦島に移す!」なんていい始めたので地元民はさぞ猛反発したことでしょう。
しかし反対者の保守派だけではなく、中には中央政権との太いパイプや貿易権を持っている行長を支持する革新派もいたのです。
そんなわけで山にあった古麓城から海辺の麦島へと移されたお城。このとき築かれた麦島城は、九州で二番目に築かれた石垣のお城でした。
ところでなんで秀吉が行長にこの八代の地を与えたかというと、九州征伐のとき秀吉は四日間八代に滞在し、古麓城からの景色も見ていました。つまり八代は海が近いことを秀吉は知っていたので、海のことに長けた行長を港町である八代(古くから徳淵の津という港があった)を任せるという適材適所の人材配置を行っているんです。


ここから朝鮮の役の話です。文禄の役では行長はご存知のとおり先鋒を任されました。
ソウルには行長と清正が同時に着いたので、お互い同時に中に入ろうと行長は東大門、清正は南大門から入ったそうです。南大門はこないだ全焼しちゃいましたけどね…もったいない…。
朝鮮にいた武将たちは、各地に倭城と呼ばれるお城を建てました。行長も順天倭城を建てて、それは石垣や天守閣もある立派なお城だったそうです。
朝鮮における行長と言えば和平交渉ですが、その一方で行長の功績としては住民支配力に長けていたということが上げられます。当時の史料では朝鮮人が小西軍と一緒に兵糧を集めたり、一緒に同じ朝鮮人と戦ったという記録が残っているそう。
また「札」を渡して、「この札を付けているものは小西軍として扱うので殺さない」ということを保障し、築城に参加させ、城下には多くの朝鮮人が居住し、しかもその城下町では交易も行っていたそうです。
このように統治能力が高いというのは、下手に戦闘に長けていることよりも朝鮮側には恐ろしいことです。自分の国の民が日本軍の一員として歯向かってくるんですからね。
そのため朝鮮が一番危険視していた三大攻撃目標は、島津・加藤・小西の三人だったとか。

師匠曰く行長はバランスが良いんですね。海将としての才能もあるし、兵站作業などの裏方もできる。順天倭城でもわかるように築城の才能もあるし、貿易にも長けてる、戦っても強い(よく小西は弱いって言われるけどそんなことはないですよ)等、なにをやらしてもそつなくこなすそうです。
戦いと言えば、朝鮮出兵に出た松浦家の記録に「一番のぶしは八城(八代)衆」と書かれています。この「一番」というのは「一番強い」ということではなく「一番手」という意味ですが、それでも一番手で果敢に小西軍は戦ってたんです。
他に朝鮮でしていたことといえば、瓦を持って帰ってきています。この瓦は麦島城跡から出土しましたが、後に釜山からも同じ瓦が出たという物的証拠が見つかったので、釜山から持ち帰ったということが確定しました。

そして行長は朝鮮の熊川に宣教師(セスペデス司祭)を招いています。
実はこれが韓国に宣教師が始めてきた歴史的瞬間なんですね。日本で言えばザビエル来日と同じ。
行長と朝鮮とキリシタンといえば、「おたあジュリア」が上げられます。宇土で洗礼を受け、その後、行長の妻・ジェスタに仕えた女性ですね。行長死後は神津島に流され、その地で没したと言われていましたが、実際には赦免されて大坂や長崎などにいたそうなのですが最期どうなったのかは不明です。


そして1598年。秀吉が没して、ようやく武将たちは日本へ帰ってくることができました。
前のほうでも言っていますが、禁教令が出てからは行長は表立っての布教をしていません。しかし秀吉没の一年後から宇土・八代で布教をはじめ、八代では二万五千人(!)もの人は洗礼したとかしないとか。
師匠が言うには「0」がひとつ多いんじゃないかとのこと。でも八代の人の間にキリスト教が広まったのは無理やり広めたとかじゃなく住民が自主的に広げていったそうです。


そんなこんなで今まで我慢してた布教も初めた行長ですが、運命の慶長五年(1600年)…
慶長四年に一旦宇土に帰っていた行長は、慶長五年の一月に再び上洛をします。
このとき、薩摩の島津義久に宛てた手紙で「今度肥後に帰国したときは、またご挨拶に行きますね」なんて手紙を送ってるんですね。
「…俺…今度肥後に帰ったら、島津義久のところに挨拶に行くんだ…」って、それなんて死亡フラグ。
もちろんご存知のとおり、行長が肥後の地を踏むことは二度とありませんでした。(…。)

関ヶ原で敗れた行長は竹中重門によって捕らえられ、六条河原で斬首。享年43歳の生涯でした。


そしてその後の宇土や八代は加藤清正に与えられますが、清正は1600年の時点では行長家臣を召抱える際にキリシタンであるかどうかは問題にしませんでしたが、翌年の1601年には手のひらを返したように「キリスト教を捨てて二度とキリシタンにないなら召抱えるが、それが出来ないなら俸禄を手放せ!」と迫るんですね。これに多くの旧小西家臣は屈して棄教してしまいます。
しかしそんな中でも頑なに信仰を捨てない二人の武士がいました。それがジョアン南五郎佐衛門とシモン竹田五兵衛。あくまで信仰を捨てない二人、そして南五郎佐衛門の妻・マダレイナと息子のルイス、竹田五兵衛の母ジョアナと妻アグネスも殉教を遂げました。
この様子はイエズス会の年報によって詳細に報告され、いちやくヨーロッパに「八代」の名が知れ渡ることとなったのです。八代の殉教は、支配者が行長から清正へ変わった象徴的な出来事だったんです。


まとめとしては十六世紀の八代は行長と密接なつながりがあったということ。
麦島城は現在の八代城下町のルーツで、それは港町という性質上、水軍の将・行長の性質と合致していた。
関ヶ原で行長が負けて支配者が清正へ移るのも、行長が来たから八代にキリスト教文化が興隆し、また行長が死んだから衰退したという行長の人生と連動しているのでした。



と、言うわけで長々と書きましたが大体こんなもんです。

このあとに質疑応答がありましたが、あたしは帰りの飛行機に間に合わなくなるので途中退室…途中まで聞いてたのも電車やバスの時間調べたりであんまり頭に入らなかったのです。くそう、悔しいなあ。


ていうか改めて読み返すと本当に長いですね。最後まで読む人いるんだろうか…。






2008⁄04⁄23 22:11 カテゴリー:イベント comment(0) trackback(0)
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